冊子「ウェル洋光台のもちよる暮らし」


著:戸谷浩隆(ウェル洋光台 大家) 第二版発行:2018年09月



人と人が集まれば、本来は、大切にしあい、贈り合い、日々の小さな事柄を愛おしんで、暮らしていく営みが自然に発生するものだと思います。この愛すべき営みを、いかに「運営」が邪魔する事なく、守り育てていく事ができるのか。私は、ずっとこの事を考えてきました。(冊子序文より)



ウェル洋光台のコミュニティ運営論をまとめた冊子「ウェル洋光台のもちよる暮らし(第2版)」 ができました。

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2006年開業のウェル洋光台。著者はもともとその初期住人の一人でした。この冊子は、そのウェル洋光台でさまざまな失敗を重ねながら育ってきたノウハウをまとめたコミュニティ運営論です。 フルタイムで働きながら、運営しながら(その頃は運営があった)、教会に行きながら、幼いの娘の子育てをしながら、暮らしを楽しみながら、合間を縫ってこつこつ書いていたことをまとめた本です。A4サイズ約85ページ、約8万5千字と文庫本レベルのボリュームになってしまいました。草稿を書き上げ、100冊限定でベータ版として販売しだしてから、2年。コミュニティ運営と文献調査を通じて、内容の妥当性の検証を行ってきました。2年ぶりに草稿を書く原点となった鈴鹿を再訪問し、当時を思い出しつつ、草稿を読み返し、当時書ききれなかったコミュニティ運営の大切なポイントを書き加えています(4章とエピローグは、1から見直し、まったく新しい内容に書き直しました)。この間、社会学から心理学に研究の重点を移し、べてるの家やAAの12ステップ療法、内観療法、スキーマ療法、インテグラル理論(ティール組織)そして、改定中には、ケセン語訳聖書の山浦玄嗣さんや上祐史浩さんの著書との出会いもありました。


もともと住人向けに書いた本です。 積極的に販売していません。本を読んでいただいていいなと思ったらどうぞ周りの方に貸してあげてください。書き込みが増えて本が育っていくことでしょう。フィードバックもぜひください。


なお、実践時のサポートとして、実際に利用しているウェル洋光台の住人向けガイドや運営で使っている家賃計算Excelマクロなどの電子データもおまけとして収録しています。その他、冊子に書かれていないことで知りたかったことがあればフィードバックください。購入いただいた方が後でがっかりしないよう、次版が作成された際は、問い合わせ頂けば差分をプレゼントできるようにするつもりです。誤字脱字を連絡いただいた方には1件100円最大2500円をAmazonギフト券にてお礼させてください。


本冊子の購入時におまけとして付いてくる電子資料:

「ウェル洋光台の欲しい未来づくり」 EDE/明治学院大学セミナー 講演資料 2016年/2017年 「もちよる暮らしの作り方」 賃貸住宅セミナー 講演資料   2016年 「ウェル洋光台のホリスティックな癒しと発達」 研究資料   2016年 「12ステップオリジナルシート」 研究資料   2017年 「住人台帳テンプレート」 運営資料   2015年 「クリスチャンの同胞たちへ」 研究資料   2018年 ※電子資料は今後も更新・追加されます。


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↓中身の一部をこちらにて公開しています。

Web公開している冊子収録コンテンツ ・ プロローグ 2014年1月 ・ 冊子目次 ・ 冊子序文 2015年5月 ・ トラブルケース集

プロローグ


2014年1月 ウェル洋光台 リニューアル前夜の手記。


7年前の春、私はウェル洋光台に引っ越してきた。緩やかな丘の上に建つ3階建ての建物。地主の増尾さんが古い寮をシェアハウスに転用して家族で運営する事を決めたのがその4ヶ月ほど前のこと。広い庭には木がたくさん植わっていて鳥がよく遊びにきていた。古いけれど、日あたりも風通しもよく気持ちいい所だという印象は今も変わらない。

29歳、私は実質の離婚をして、実家に戻って2年目。親のありがたみを感じつつ、親元に長くいるものではないなと感じていた。ふと知ったシェアハウス、しばらく住んでみるだけのつもりだった。


若い頃、インドの小さな都市に4ヶ月滞在した事があった。違いを受け入れコミュニティを大切にする暮らしを目の当たりにし、日本に戻ってから感じてきた違和感は離婚を機により深まっていた。日本で家庭を築いて幸せになれる気がしなかった。だから、いつか日本を脱出しようと考えていた。しかし、いつそうするのか。暮らし慣れた町、職の守られた大会社。踏ん切りのつかないままでいた。すこしでも新しい事をはじめて、視野を広げようとする事だけが、自分の焦りを忘れてさせてくれた。


私が入ってきた頃、ウェル洋光台はごく普通のドライな人間関係のシェアハウスだった。住人同士すれ違っても挨拶をするわけでもなく、それぞれが勝手に食事をし、テレビをみたり本を読んだりしていた。日常の暮らしの中、嫌でも頻繁に会う人たちに近づきすぎるのは、つねに気を使うことになって疲れるという事なのだろうか。部屋は半分以上埋まっているのにラウンジはずいぶんガランとしていた。


あとにとても仲良くなる人懐っこいイギリス人のアランも私とほぼ同時にウェル洋光台に入居してきた。始めに挨拶をしたときのことを今でも覚えている。日本語の話せないアランは安心した顔をして言った。

「俺は日本にはじめて来たけれど、日本人が怖いと感じている。なんで日本人はみんなすれ違っても挨拶をしないで無視するのか?」

「うーん、アラン、そうだなぁ...そうだ、じゃあ、一緒に挨拶できる人を増やしていこうじゃないか。もっと仲良く一緒に過ごせる人を増やしていこうじゃないか。せっかくのシェアハウスなのだから」。


それから、二人の試みが始まった。パーティーをやってみたら、数人の人たちが集まってきた。そこで仲良くなり、後で私の妻になった朱美さんは、天然酵母パンを作ってみんなで試食する会をやり始めた。日本が初めてのアランは、日常の細かい事から観光までいろいろな事をみんなに聞きたがった。鎌倉に行きたいが一人じゃ不安だというのでみんなで鎌倉にピクニックにも行った。つたない英語とつたない日本語で会話をするのがおかしくて、毎日みんなで笑う日が増えた。そんな事をしているうち、一人一人と仲間も増え、徐々に一緒に朝ごはんや夕ご飯を食べたり、会話したりする人が増えていった。


朱美さんが庭で畑をやりたがりオーナーの増尾さんに許可を求めたら、元農家の増尾さんは喜んで、頼んでもいないのに土を掘り起こし肥料を入れて畝まで作ってくれた。5月の気持ちのいい週末、ホームセンターで買ってきた苗を皆でたくさん植えた。庭の草木の成長を皆で眺めながら、季節きせつの花を摘み、生け花を楽しんでいると日本の四季の美しさに改めて感じ入った。


パーティーを重ね、だんだん、それぞれの悩みや想いを語り合う事も増えた。それぞれの人の見ている風景を共に眺め、共に喜び、ともに悩んでいるうちに、いつのまにか、自分の悩みも遠くから冷静に見つめられるようになった。

いつのまにか、日々の暮らしに心から満足している事に私は気がついた。新しい恋人が出来た訳でも仕事が変わった訳でもないのに、いつか幸せになりたいという気持ちが、今幸せだという気持ちに変わっていた。


「そうだ、子供が生まれても、年をとってもこんなもちよる暮らし方をずっとしていけたら何が起こるだろう?日本中に、世界中に、こんな暮らし方が広まっていったとしたら、今抱えている様々な問題が解決するのではないか」。そう思えた時、いつか海外へ脱出したいという気持ちは、日本にとどまって、日本で幸せな暮らしの形を作っていこうという勇気に変わった。この頃、同じ思いを持つ仲間たちと出会い、夜通し語り合って、分かち合った想いは今も変わらない。


たとえば、過剰消費の問題。シェアハウスでは、生活時間帯がずれるため少しのものをみんなで分かち合うことで十分に暮らしが成り立つ。家電や暮らしの道具にとどまらず、水回りが集約、削減されるために建築コストまで安くすむ。23世帯あっても、トイレ、シャワーが4つで十分と言えばその効果性をわかってもらえるだろうか。生活の質を落とす事なく住まい手にとっては生活費が安く、作り手にとってはより収益性のある形を作る事が可能だ。さらに、裁縫、製菓、音楽、菜園など暮らしの道具を持ち寄って分かち合う事でいつのまにか贅沢になってしまった手仕事を自然な形で生活の中に取り戻す事が出来る。なにより、気持ちのいい庭で洗濯を干しながら雑談したり、料理を作ったり、庭の草花を活けてみたり、生活のひとつひとつが楽しくなると埋められない基本的欲求を埋めようと尽きない浪費をする事もなくなる。近隣の里山との継続的な交流を通じて、生活に必要な多くの物を継続的なつながりのなかで完結させていく試みも自然体で進める事が出来そうだ。


たとえば、子育てや老後の問題。みんなで集まって子育てしたほうが子供に対して集中して接する事が出来るし、なにより、いろいろな価値観の大人や子供と接しながら、自分で考え行動する事を学んでもらえる。はたらくという言葉は、本来、「はた」を「らく」にする暮らしの中の営みであり、学びも本来生活の中にしか有りえないもの。季節を感じるところから日本文化の話へ、身の上話から地理へ、パン作りから化学へ、BBCから世界情勢へ、けがから医学へ、野菜作りから農学へ…そしてなにより、本当の知恵、人格、教養、働く喜びを次の世代に引き継げる。豊かに人間的に成熟した人生の最後を、後世にその知恵と文化を伝えて終えるというような、人間らしい生き方を実現することが出来ると感じた。もちろん、田舎でも本来的に実現できている地域も各地にあるだろうし、都会でも志ある人たちによって、コーポラティブハウスやコレクティブハウスなどの試みが行われてきている。しかし、既存の取り組みは、どうしても、補助金やボランティア活動、暮らし手の資金力に支えられており、どうしても細々とした取り組みになってしまっている。強い収益力があり、実際に年間3割の成長率を示しているシェアハウスの事業モデルに、これら先人達の作り上げた知恵を重ね、ハイブリッドなモデルをつくれたならば、贅沢ではなく、ごく自然な形で、都心でも集まって暮らす暮らし方を広めていけると考えた。


なにより、可能性を感じた事は、もう一度、ひととひとが、素朴でピュアに暖かくつながることの出来る場所を取り戻す事。窮屈な田舎社会のようなところではなく、それぞれの自由を尊び、違いを受け入れ、信頼しあって見えない貢献、贈りあいの心を大切にした暮らし方の実現だ。青年時代、国際基督教大学の自由な学風は、窮屈な日本の義務教育で押し込められていた私の心に、ふたたび社会に対する希望を与えてくれた。能力や気質、性格など持って生まれたものによらず、真実を見つめる勇気を与えあう愛情、信頼を育むための交流の意思さえあれば、要は気持ち一つあれば、生き生きと暮らしていける場所をつくり、すこしでも自分なりの恩返しをしたかった。


そこで、1住人としてウェル洋光台を理想のシェアハウスに近づけていく事により熱心にとりくみだした。まず、ホームページの整備をかってでた。その頃めずらしかった菜園があるシェアハウスの風景や、シェアメイトのお菓子作りの様子、生け花など、ハウスの暮らしの様子を写真とともに掲載した所、暮らし方に共感する人たちが集まってきた。おしゃれで高級な「デザイナーズシェアハウス」が少しずつ出てきて人気を集めていた頃、私たちは、当時としては斬新な「コンセプトシェアハウス」のやり方で人を集めていった。ホームページもハウスの外装も素朴なものだったが、写真と文章を見てくれた人たちから、ハウスには申し込みが殺到し、ハウスにはウェイティングリストが出来た。そこで、内見希望者にはアンケートをお願いし、ハウスで共に暮らしを楽しもうという想いの持った人を選んで案内する試みをはじめた。毎日自炊をする人、ハウスでやりたい事をはじめる人、さらによい人たちが入ってくるプラスの流れが出来た。磯子国際交流協会など地域の活動に出かけるとそこからもよい人たちが引っ越してきた。


多世代居住にも興味を持って、コレクティブハウスに何度も視察に行った。当時、コレクティブハウスは、クルミドコーヒーで有名になる影山さんが理事長をされていた。シェアハウス業者の連盟が結成され、勉強会の誘いがきたため、無償のスタッフにしてもらい、連盟の勉強会に参加した。想いの持った老舗の業者が多く参加していた連盟の活動はその頃活発でシェアハウスでどのような問題が起きうるのか、他ではどのように対策をとっているのかを居酒屋で熱く語り合っていた。今では、すっかりシェアハウス業界の中心的な存在となった「ひつじ不動産」も、当時はまだ立ち上げたばかりで、シェアハウスへの熱い想いだけで突っ走っているような若い小さな会社だった。コレクティブハウスの影山さんに、ひつじ不動産の北川さんを紹介して、対談セミナーのお手伝いをしたのがきっかけで、北川さんも親切に接してくださるようになり、いろいろと貴重なお話を聞かせていただけた。まだシェアハウス業界は立ち上がりかけで、若さと熱意さえあれば、たくさんの人が面白がって温かい気持ちでたくさんの貴重な事を教えてくれる時代だった。


外国人が多い老舗のシェアハウスが大切にしていた自由で多文化な人のつながり方を、私たちもなにより大切にした。日々発生する小さな問題に向き合いながら、ウェル洋光台の運営についても増尾さんと二人で相談しながらひとつひとつ深めていった。ウェル洋光台には、当初ルールがなく、増尾さんも地主らしいのんびりとした暖かい人柄でそれがよい良い雰囲気になっていた。そこで、その雰囲気を壊さないようにしているうちに、自然に、誰かがルールを知らなかったり、ルールを破ったりしてもトラブルが起きない形でルールが出来てきた。それはルールというよりは、「誰かがここにはルールがないと仕切りだして、皆を縛るルールをつくらないためのルール」であり、「誰も仕切る事がないように守る」事が僕と増尾さんの役割だった。私たちはこれを生活ガイドと呼んだ。

人と人の自由がぶつかった時、どうするか?学校では「みんなで話し合ったきまりをみんなで守る」よう教えている。コレクティブハウスなど老舗の質の高いコミュニティもそのようにしているように見えた。しかし、私たちのハウスには、日本語の出来ない外国人もいたし、私の妻のように大人数の中で意見を主張する事を苦手と感じる人も多かった。そこで、私たちは、原点に戻り、自由と自由がぶつかったときも、人と人との「つながり方」をより大切にする事で解決しようと試みた。そのようにして、「自由」と「民主主義」でなく、「自由」と「つながり方」を秩序とする独特のコミュニティが醸成された。


ホームページを見ていい所だと思って入ってきましたと言われる事が嬉しかった。ハウスに入った人がここは親切で温かな人がばかりだといって、生活の中で心から安心した笑いを見せるようになり、癒されていくのをそばで見ているのを見て自分もまた癒された。すべて手弁当ではあったが、十分すぎるほどの報酬を受けていた。


2009年、住人に支えられ、妻と私は素朴だが本当に素晴らしい手作り結婚式をあげ、ハウスを卒業した。私は子供が生まれてもシェアハウスに住んでいたかったが、人気のシェアハウス、ウェル洋光台を、あえ多世代化する必要性は、ビジネス的にも、住人のニーズとしても思い浮かばなかった。増尾さんに、生活ガイドがハウスの守りである事を念押しし、私たちはハウスを出た。その後、私は結婚式が縁となり、教会に通うようになる。リベラル、多国籍で超教派の横浜ユニオン教会がハウスの次に私たちが関わるコミュニティとなった。


私たち夫婦は、結婚する際、シェアハウスで培った関係を、ハウスを卒業しても保とうと誓い、3つの夫婦の憲法をつくった。1つ目は、違いを受け入れ、互いに相手の期待には応えられないと諦める事、2つ目は、そのために相手がどうであっても家族全員の面倒ぐらいは一人で見る覚悟を持つという事、3つ目は今までのそれぞれの家族の価値観を捨て、夫婦でともに新しい家庭を作る事。そのために夫婦でともに行う活動や対話を大切にする事。二人は、とても仲が良く、尊敬しあっていて、いつまでも新婚のような気分でいられそうだった。


それから、4年の月日が流れた。


私はホームページの最低限の保守だけは引き続き無償で協力していたが、ハウスに遊びにいく事は殆どなかった。出産直前に東京の府中に家族で転勤、親も馴染んだ教会も遠く昔からの友人がいない中、懸命に子育てに取り組んでいた。府中に来てからは、子育てで周囲にも負荷・迷惑がかかる時期、安心して受け止められている感じを持つ場所を見つけるのは難しかった。仕事でも子育てでもストレスが募り、だんだんと、精神的な面で自立していく事が難しい状況になってきた。現在の環境では、外的状況によっては夫婦の憲法を保って事が現実として難しい事が明確になった。夫婦の憲法を修正するか、環境を変えるのか。私たちは環境を変える事を選択し、自分の家を外部に解放して暮らす、住み開きが出来る住まいを探し始めていた。住み開き出来るよい住まいは一年経ってもよい縁がなかったが、子供を保育園に預け、妻は夢だったお菓子教室をはじめていた。私はホームページでの発信を担当。金銭的には赤字だったが、二人の二人三脚で人から「ありがとう」をもらう事が嬉しくて、再び夫婦の仲が暖まっていた。親として子供に、お金のためでなく周囲の隣人たちのために、喜んで「はたらく」背中をそばで見せることのできる暮らしを作っていきたかった。


そんな、ハウスを出て、ちょうど、4年後の冬、私は増尾さんから再びウェル洋光台の事で相談を受ける。ハウスの改装のために、増尾さんに紹介したデザイナの近藤さんが、半年経っても内装プランが完成せず、悩んでいると言うのだ。昔、ウェル洋光台にいた時、何度も遊びにきてくださり、何度も夜通し「もちよる暮らし」について想いを語り合った仲。暮らしについて、女性ならではの丁寧な感性があり、自信を持って紹介した友人だった。近藤さんより話を聞くと、「改装しようにも住人の顔が見えない」のだという。シェアハウス市場は6年前から年間3割ベースで成長を続け、今や2万世帯を超える規模。勝ち組と負け組がはっきりしてくる中、あんなに人気のあったウェル洋光台も今や大苦戦しており、空室だらけの状況だと言うのだ。あんなに耕す人の多かったウェル洋光台の菜園が耕す人がいなくなり、庭が荒れたので、外装と庭を改修するのだと聞いた時、何かがおかしくなっているとは感じたが事態を把握していなかった。「シェアハウス市場の拡大により、時代は変わった。今のウェル洋光台は、かつて戸谷さんがいた頃のウェル洋光台とは全く違う所になっている」という。私がつくったウェル洋光台のホームページに書いてある内容は、もはやハウスの実情と乖離しているという。暖かい文化も畑や料理が好きな人が多かった構成も変わり、コンセプトはただのキャッチフレーズになってしまっているという。それがハウス見学者が入居せず、入居しても短期で退室してしまう事態につながっているようだった。かつて、シェアハウスの勉強会で、「雰囲気の良いシェアハウスも開業4、5年目ごろからは問題が発生しがちだ。そこからが本番だ」と言っている人がいたのを思い出した。ウェル洋光台にも同じ問題が発生しているようだった。

友人のデザイナは、「庭をきれいにしても誰も畑を耕したりはしない。料理設備などハードに特徴を出しても住人が使うとは限らない。こぎれいな内装を普通に行う事はできるが、それでは仕事としては失敗だ。プロとしてそれはできない。」と頭を抱えていた。


どのようにして事態を打開するか、鍵は、コンセプトに特徴のあるコミュニティを育て、安定・維持させる事だ。3人で話しこむうちに1つのアイデアが誰からともなく湧き出た。「ハウスを多世代化して、戸谷家が再びウェル洋光台に戻って子育てしながら10年スパンで暮らし、ハウスの核になってコミュニティを安定させる」というプランだ。たしかに、それならば、かつてのウェル洋光台のように、良い雰囲気を取り戻し、菜園も活用されるように戻すことができるだろう。二人で集めたお菓子教室のための製菓道具やインテリアも改装には活きてきそうだ。質の高いコミュニティを安定的に維持できるのなら、暮らしの道具や食材を格納するストックルーム、DIY工具庫などの特徴的なハードの設置など、意味のある改修にも踏み切れそうだ。

しかし、今住んでいる人たちはどう思うだろうか?全員が賛同してくれるとは到底思えない。しかし、住人全員が賛成するまでこのプランを始動させるのは難しい。やり始めたら、最低でも1年間は精神的にも金銭的にも大変な思いをするのは間違いないと思えた。しかし、増尾さんは、それでも「俺には手に取るように見えている。こんなに楽しく豊かなウェル洋光台の未来が見えているのにやらない手はない」という。私たちは考える時間をもらう事にした。


あとでわかった事がある。増尾さんはその頃、ハウスの管理が本当に嫌になっていたのだ。増尾さんがどんなに心を込めて運営しても、昔のような感謝も尊敬もなく、住人たちから厳しい苦情や不満のメールが増尾さんの元に日々相次いでいた。退室したハウスの友人たちから話を総合すると、起こっていた事態はこうだった。

ハウスには、共用部での滞在率が長く、新しい人が入ってきた時にコミュニティの中に引き入れる人が必要だ。僕たちが抜けたあとも始めは、ハウスはうまく回っていたが、どこかの時点でバトンがわたらなくなってしまった。もう新しい人間関係はいらないとコミュニティが閉じてしまった。すると何が起きるか。ホームページを見て、良い人が入ってきても、良い人から抜けていってしまう。ハード面で気に入って寝泊まり出来ればよいと思う人だけが残っていく。そのうち、仲良しグループは1人抜け、さらに1人抜け、だんだんハウスが静かになってくる。すると、共用部を自主的に掃除する力がコミュニティからなくなって、ラウンジもリビングも汚れてくる。あんなに人気があったハウスだったのに、見学にきて、共用部を見て顔をしかめて帰ってしまう人が出てくるようになってしまった。

入室率、滞在率が落ち、だんだんと空室が増えてくるようになり、昔のように共に暮らしを営む人を選んでいれる事が出来なくなった。そして、そのうち、性格のおかしな人が入ってきてしまった。その人には退室してもらったようだが、数か月間、特に女性が安心して暮らせない状況が続いたらしい。その間に耐えられず、人がたくさん抜けてしまったようだ。私たちのいた頃には、あれだけ大切にしあっていたコミュニティ内の「人と人とのつながり方」も全く様変わりし、再び住人がすれ違っても挨拶もしないドライな普通のシェアハウスに戻っていた。増尾さんにその重要性がきちんと伝わっておらず生活ガイドは数年の間住人に説明され共有される事はなくすっかり忘れ去られていた。

増尾さんに相談を受けていた頃、ハウスの空室率は5割を軽く超えていた。シェアハウスは生き物なのだ。コンセプトシェアハウスは、どこもそのコンセプトの継続性に苦労している。畑付きシェアハウスは畑の管理(実はコミュニティの管理)が大変で、広まらなかった。指向性の強いホームページを作れば、コンセプトシェアハウスが出来る訳ではないということを私たちは身にしみて知った。


増尾さんよりの依頼を、引き受けるべきか悩んでいた私たち夫婦の心を最後に動かしたのは、ウェル洋光台の1年前のパーティーで出会った1組の魅力的なカップルの賛同だった。アメリカ人男性と日本人女性のそのカップルは、男性がシェアハウスにずっと住んでいたいと考え、女性は早く結婚して次のステップに進みたい状況。私たちが住んでいた時代にも同じようなカップルがおり、考えてみれば私たちも過去同じ状況だった。その女性は妻がお菓子教室を開催したいように、アロマセラピーの教室をいつかやりたいという夢をもっており、その点も似通っていた。こう着状態が長く続き、女性は半年超の留学にアメリカに旅立っている。シェアハウスで子育てや手仕事の教室ができれば救われるカップルは意外に多いのではないか、もし、この計画が少なくともこのカップルのためになるのであれば、つらい事があっても乗り切れる気がした。実際、このカップルの応援が子育て、仕事、お菓子教室の運営とハウス企画作業の両立に追われる私たちを長く力づけてくれた。


年明けより昔のつてを頼りつつ、リサーチや視察を重ね、シェアハウスの市場が広がった今の時代であれば、子育ても出来るシェアハウスというコンセプトも成立可能そうであることを確認。友人デザイナとは、セッションを重ね、改装プランの方向性を詰めた。2013年5月、ハウスに当時住んでいた住人9人の一人一人に膝を突き合わせて増尾さんとハウスのリニューアルの方向性を伝えた。ハウスを多世代化し、私たちがボランティア管理人として子供を連れてウェル洋光台に戻ってくる事や生活ガイドの復活、改装の計画などを。私たちの想像と覚悟に反して、きちんと説明すると全員がすぐに賛同をしてくれた。空室により毎月70万超の機会損失を出している状態。このままずっとこの形で運営は続けられないことは、住人の誰もが理解はしてくれていた。


「畑、手仕事、おうちカフェ、ずっと暮らせる国際村」。6月、コンセプトシェアハウスポータルのColishに投稿したこのコンセプトフレーズで一番力を込めたのは、「ずっと暮らせる」という所だった。私たちはコンセプトシェアハウスでの失敗を活かし、その次を見つめていこうと考えていた。子育てできるシェアハウスであることは事実だが、それは結果であり中心に据えるつもりはなかった。私たちが10年スパンで住み、今後も長く住む種になる人がいる形を作ることで、人と人とのつながり方のバトンをしっかりと次の世帯に引き継ぎ続け、6年前に感じたようなシェアハウスのポテンシャルを安定して引き出し続けるような新しい形を一緒に作っていこうと呼びかけた。


果たして、そのコンセプトはColishで当時2位の「いいね!」を集め、それなりの話題を集める事になり、しばらくして、週に2通ペースで内見希望の問い合わせがくるようになった。昔の住人も「戸谷家が戻るのならば」と、何人かが戻ってきてくれた。増尾さんの意向もあって、想いに共感していただいた人だけを選んで入室いただいていたが、それでも半年以内に全室満室にする事が出来た。5月以前から住んでいる住人は5名。改装費は100万円のみ、広告についても、未だホームページも未改修の状況であり、Colishの1枚の絵と文章、そしてひつじ不動産の小額広告とFacebookだけで、23室中、18室を埋め、再びウェイティングリストがある状態にハウスを戻す事ができたことになる。カップル・家族は5組、2人の子供がおり、その誰もが、コミュニティに元気を与えてくれる存在だ。多くが20~30代であるが、保育の研究所を運営していた女性など40代もいる。ハウスには、妻の製菓に加え、ヨガ、アロマ、漢方、鍼灸、保育、マクロビ、楽器演奏など様々な才能と、なにより、海外暮らしなどを通じ、常識にとらわれない自由な感性を持っている個性的なメンバーが集まった。


今は、過去の失敗を活かし、人と人との「つながり方」をさらになによりも大切にする運営を行っている。昔と同様、日々の課題をつながり方に原因を求めて解決していくことはもちろんだが、新しい居住者に「つながり方」を大切な事として受け止めてもらえるよう入居プロセスに気を使っている。