書籍「未解決のまま、共にいる」 特設サイト
更新日:9月25日
ー ギフトで成り立つ共同体から生まれた愛を活かすつながりの実践哲学 ー
ウェル洋光台二十周年記念作品 著:戸谷浩隆 挿絵:山口萌菜 序文:辻信一 推薦:天外伺朗、他
発行:もちよる暮らし舎(特定商取引法に基づく表記) A5版 244頁(約13万5千字/挿絵21点)
サービスなし、役割なし、当番なし。 ギフトで成り立つ多国籍・多世代シェアハウス「ウェル洋光台」。 約35人が暮らすこの家での20年間の試行錯誤から、本書は生まれました。
テーマは「愛」と「つながり」。 エーリッヒ・フロムの愛の思想を起点に、エルダーシップ、ホールド、空気感など、これまで感覚として語られてきた共同体のスピリチュアリティを、実践の言葉として丁寧に解きほぐします。
人と人が未熟さや矛盾を抱えたまま共にいるための、愛を受け取る勇気と生きられた知恵を描いた一冊です。コミュニティづくりに関わる人はもちろん、家族や職場での関係に悩み、疲れたすべての人に寄り添い、読む人それぞれの歩みに、小さな気づきとあたたかな光が灯ることを願っています。
Amazonや横浜・鎌倉・洋光台等の店舗で発売中
価格:2000円+税
連載「ウェル洋光台物語」
出版記念イベント情報や本の目次、そして本の中では十分掲載しきれなかったウェルの物語をNoteで公開中!
推薦のことば

シェアハウスでの暮らしに興味がある、コミュニティづくりのノウハウを知りたい、といった思いで、この本を手にとったあなたは、ちょっと驚くかもしれない。読み進めるうちに、自分が想像していたのより、もっと温かくて優しくて包容力に溢れた、大きい贈りものを手にしていることに気づくのではないか。
ー 辻信一(文化人類学者/明治学院大学名誉教授)
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シェアハウスでの暮らしに興味がある、コミュニティづくりのノウハウを知りたい、といった思いで、この本を手にとったあなたは、ちょっと驚くかもしれない。そして最初のうちはもしかしたら少し戸惑いながら、それでも好奇心を刺激されて読み進めるうちに、自分が想像していたのより、もっと温かくて優しくて包容力に溢れた、大きい贈りものを手にしていることに気づくのではないか。
ぼくだってそうだ。ウェル洋光台の大家さんとしてしか著者の戸谷さんのことを知らなかったぼくは、あの微笑みや穏やかな物腰や、共に過ごした時間の心地よさの奥に広がっているとてつもなく豊かな世界にまでは、思い至らなかった。
心理学、哲学、文化人類学、経済学、宗教学、コミュニティ論、コミュニケーション論…。この本は、あなたがたぶんなかなか手を出せずにいたこうしたさまざまな分野にまたがり、それぞれにしっかり踏まえつつ、しかも、それらすべてを超えて、いまだ見たことも、聞いたこともなかった地平へとあなたを丁寧に導いていく。
そのテーマは「愛」、そして「共に生きるということ」。愛とか、共生とかという、これまで、多くの読者にとっておそらくあまり使い易くなかった言葉が、いつの間にか、自分のうちにしっかりと根を下ろしていることに気づく。そう言えば、とぼくは思うのだ。著者の戸谷さんと同様、ぼくにとっても大切な本、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』が英語で出版されてから七十年を経て、これまで翻訳語の域をなかなか出ることができないでいた「愛」という言葉を戸谷さんは実にナチュラルな日本語として使いこなしているではないか。
一つの鍵は、本全体を縦糸のように貫くキーワード、「余白」にある。例えば、著者によれば、余白とは「人生の意味に潜むわからなさ」を拒まず、むしろ受け入れること。そして、「わからなくても大丈夫だ」という気づきが深い信頼を育て、人々は互いに、「答えを急がずに共に留まることを学ぶ」のだという。人と人との「あいだ」に、そして、自分と自分自身との「あいだ」にさえ横たわる「わからなさ」は、愛を隔て、妨害するのではなく、むしろ、愛に欠かすことのできないエッセンスなのではないか…。ぼく流のダジャレで言えば、「あいだは愛だ」というわけである。コミュニティでも、同じように、「人と人の違いがぶつかったとき、話し合いではなく、まなざしと配慮と余白のある対応でほどいていく」。この戸谷さんの言葉に、ぼくは、ようやく日本にしっかりと根づきつつある愛の哲学を見出す。
読者としてのぼくが最も強く心を打たれたのは、「私がこの世界を信じる」以前に「世界のほうが私を信じている」、という著者の言葉だ。「私」とは、近代的な個人主義の礎である「完結した個」として存在するのではなく、「むしろ他者や世界との関係性のなかで初めて姿を現すものではないか」、と戸谷さんは言う。世界との関係性の中から「私」が現れてくるのを彼はウェル洋光台という場に参与しつつ、見守ってきた。「場がどう在ろうとしているのかに静かに耳を澄ませること」。それは戸谷さん流の人類学的フィールドワークだ。
戸谷さんは、こんな言い方をして、ぼくを驚かせる。「狩猟採集民が森に向きあうように、この家を扱いたい」。何百年、何千年と森に生きてきた人々は、戸谷さんによれば、「森がどのように生き、どのように育とうとしているのかに耳を澄ませる」すべを知っている。同じように私たちもまた、自分が生きている場そのものを、まるでそれが生きているかのように扱うとき、「場が持つ静かな声が聞こえて」くるのだろう。「私たち自身の願いや思考をそっと超えて響く微かな気配」を聞き取る姿勢を戸谷さんは大切にしたいと思う。
現代世界の危機は急速に深まっている。人と人との、人と自然との「分離」という近代的マインドセットにはまり込んだ末に、ぼくたちは追い詰められている。『未解決のまま、共にいる』が直接それに言及することはない。でもぼくには、戸谷さんが地球という場から、社会という場から、日々発せられる悲痛な声に、人一倍心を痛めながらも、絶望の闇を照らす小さな希望の光を灯し続けようとしているのが、この本から感じとれる。
ウェル洋光台という家こそ、戸谷さんにとってのその希望の光だ。「懐かしい未来」という、ぼくも長年大切にしてきた言葉を使って、戸谷さんはこう言っている。
「問いと営みの先に、どんな懐かしい未来があるのかを、この家を通じて探ってみたい。そう願ったのです」
そして、この家で彼が見出してきた「懐かしい未来」は、実はこの世界のあちこちに芽生えている。それは例えば、「効率や生産性だけでは測れない、暮らしや関係の手ざわりを取り戻そうとする動き」として現れている、と戸谷さんは感じる。そして言う。「人間は、この数千年で築いてきた文明という旅路の先で、もう一度『種としての記憶』に還ろうとしているのではないか」と。
だから、あきらめてはいけない。ぼくたち一人ひとりが願い、祈ることの力を過小評価してはいけない。戸谷さんの次の言葉は、読者であるあなたを、ぼくを、優しく励まし、支えてくれる。
「何を願うかによって、私たちが生きる世界は少しずつ、けれど確かに変化していきます。だからこそ、一人ひとりが『何を願うか』はとても大切なことです」
『未解決のまま、共にいる』に挙げられた次の六項目は、人類としてかつてない試練のときを迎えたぼくたちが、危機の只中にあっても、日々、心の平穏と生きる喜びを手放さずに生きていくための備忘録、To-Do List ならぬTo-Be Listだ。いや、それにしてはあまりに詩的で美しい。それをプリントして壁に貼っておこうか。いや、マントラとして時々唱えるのもいい…。
わからないことをそのまま大切に抱えること
場がどう在ろうとしているのかに静かに耳を澄ませること
言葉にならない感覚や沈黙を丁寧に守り続けること
季節の花をそっと飾ったり、椅子を静かに並べ直したりといった小さな配慮で、
場の雰囲気を穏やかに整えること
場の輪郭を静かに調整し、内側のやわらかな空気を守ること
日々のささやかな手仕事を祈りのように繰り返し、言葉にならない美しさを場に保つこと

人と人が一緒に暮らすということは、本当は容易ではありません。私たちが、それを大変と思っていないのは、どこかに強制を入れてしまうと、共生が簡単にできてしまうからです。
「一人ひとりが全体性を発揮できる状態で、なおかつ楽しく共生できないだろうか?」
その苦闘の歴史がこの本に込められています。多くのコミュニティで参考になるでしょう。
ー 天外伺朗(元ソニー上席常務/工学博士/天外塾主宰)
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人と人が一緒に暮らすということは、本当は容易ではありません。
アジア学院という、いろいろな国の人々に有機農業を教えているキリスト教系の教育機関では次のような標語を掲げています。
That, we may live together!
・・・should でもなく must でもなく、may が使われていることにご注目ください。
「人と人が一緒に暮らすということは簡単なことではない。でも私たちは、ひょっとするとそれが出来るかもしれない。希望を持って、それにチャレンジしようではないか!」
・・・というニュアンスが感じられます。
私たちが、それを大変と思っていないのは、どこかに強制を入れてしまうと、共生が簡単にできてしまうからです。階層的にいうと:
アンバーというのは、依存が残った状態なので、「リーダーに従え」、という強制が入ります。
オレンジというのは、合理性を重んじるので、がんじがらめに規則を作り、その強制力で共生を実現します。
グリーンというのは、争いを嫌いますので、「仲良くしなければいけない」という暗黙の強制力で皆を縛ります。
・・・これらは、いずれも集団にあわせて自らを制限することによって、つまり一人ひとりは全体性を発揮できない状態で、窮屈な思いをして、共生を実現しているのです。
「一人ひとりが全体性を発揮できる状態で、なおかつ楽しく共生できないだろうか?」
・・・それが、戸谷浩隆さんの挑戦です。
その苦闘の歴史がこの本に込められています。
多くのコミュニティに参考になるでしょう。

この本は、戸谷さんがこれまで歩まれてきた道のりを、ゆらぎや葛藤までも誠実に言葉にしてくださった一冊です。ページを開いた瞬間から私自身の嘆きや揺れがやさしくそしてあたたかく受けとめられたような感覚に包まれ、深い共鳴とともに涙が止まりませんでした。人と人とのあいだで揺らぎながらもつながりを諦めずに生きようとするすべての方に届けたい──そんな心からのギフトのような本です。この本を世に送り出してくださったことに、心より感謝いたします。
ー 小川美農里(ダーナビレッジ/チャルジョウ西会津農場代表)

人は愛や繋がりを求めながら、同時にそれらを失うことを恐れています。本書は、その矛盾(二律背反)を、無理に解決せずに、未解決のまま共にいるための、心のあり方や世界の見方、愛し愛されるための技術をやさしく伝えてくれます。コミュニティでの暮らしに憧れと葛藤を抱えている人、人との関わりを諦めかけている人に贈る必読書です。
ー 吉武大輔(俵山ビレッジ/作家)
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横浜で20年の歴史を積み重ねてきた「ウェル洋光台」の戸谷さんの書籍が出版されます。
ㅤㅤ人は愛や繋がりを求めながら、同時にそれらを失うことを恐れています。
ㅤ戸谷さんの本は、その矛盾を、無理に解決せずに、未解決のまま共にいるための、心のあり方や世界の見方、愛し愛されるための技術をやさしく伝えてくれます。
ㅤコミュニティでの暮らしに憧れや葛藤を抱えている人、人との関わりを諦めかけている人に贈る必読書です。
ㅤ自分がシェアハウスを始めたのが2008年。
ㅤこの18年間ずっとコミュニティに生きてきて、「本当にそうだな。そうなるよね。そうありたいな」と思うことが凝縮された一冊です。
ㅤわしが共鳴した箇所をこちらに引用させていただきますので、是非、先行予約にお申し込み下さい。(引用が多過ぎますが、そのくらい響きました)
ㅤ戸谷さん、おめでとうございます。
愛を信じ、愛を生き、愛の上に家を建てる戸谷さんを尊敬します。
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人との関係は、不完全で、未熟で、面倒で、痛みを伴う。けれど、そのなかにしか、心の深いところから動かされる瞬間はないのではないでしょうか。面倒を共にするからこそ、小さな愛が生まれる場がひらかれていく。私は、そんな関係の場に、立ち会い続けていたいと思うのです。(p.15)
ㅤ
私は、問題だらけのなかにある豊かさをずっと伝えようとしてきました。暮らしを共にするというのは、そういうものなのです。問題のない家族、不器用さのない家族があるでしょうか。仲のよい家族ほど、問題がよく見える。問題が見えない関係こそ、どこかで誰かが感じることを諦めているのかもしれません。(p.23-24)
ㅤ
何かが足りなかったと感じたことも、誰かに怒りや失望を抱いたことも、うまく言葉にできないまま、すれ違っていった時間も、全部を含めて、この家はいまここにあります。振り返ればいつの日もーこの家は、たしかに愛の場所でした。未完成で、不器用で、問題だらけで、傷だらけだったけれど、それでも、間違いなく、愛おしい日々だったのだと。(p.26)
ㅤ
愛について語ることそのものが、私たち自身や関係性に影響を与えてしまう。ーそのような危険性を理解した上で、それでもなお、あえて愛について語る一歩を踏み出したいのです。(p.33)
ㅤ
「与える勇気」だけを称える文化では、勇気を出せない人が疎外され、居場所を失ってしまいます。しかし、「受け取る勇気」が大切にされる文化では、まだ勇気を出せず揺れている人を静かに受けとめ、問いや揺らぎをそのまま許容する空気が育まれます。愛を育む空気感は、誰かが勇気を出して与えることではなく、むしろ誰かが勇気を出して静かに受け取った瞬間から、そっと醸成されていくものなのです。(p.43)
ㅤ
信頼ー世界や他者、そして自分自身が、すでに存在そのものとして受け入れられているという感覚に根ざすこと。言葉になる前の気配にそっと身を委ね、根源的なつながりを信じること。それは、世界の善意を信じて、「いのちの声に身を委ねる勇気」でもあり、一人ひとりの感覚が響きあいながら「痛みと喜びを分かちあい、世界に応答する行為」でもあります。(p.45)
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愛とは、「相手がその人であることを許し、自分が自分であることに立ち返る」ことです。(p.49)
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人によって、心が動くものが違う。誰かにとってはただの行為でも、別の誰かにとっては忘れがたいギフトになる。その違いこそが、共同体に息づく贈り物の多様性なのです。その多くは、名前も残らず、言葉にもならない。私たちは、つい「目に見える貢献」や「わかりやすい配慮」を重視しがちです。でも、共同体において本当に大切なものは、誰にも評価されない、目に見えない営みによって支えられていることが多いのです。(p.56)
ㅤ
ありのままを活かしあうとは、お互いの不完全さを、重荷ではなく贈り物として差し出し合うこと。そして、未熟なまま、迷惑をかけあいながらも、なお共に生きていこうとする勇気を持ち続けることです。(p.80)
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もし、人が共同体の共通のものの見方や言語を超えて、共同体や自らのなかにある、いのちの声をそのまま敬うことができたならー共同体という器は、私たちが互いに痛みと喜びを分かちあい、共同体を通じて、この世界を深く認識していくために不可欠な媒介となるでしょう。個々の目覚めや体とのつながりではなく、共同体の関係性の質感そのものにも耳を澄ますことで。(p.101)
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私たちは、誰もが未熟なままにこの世界へ生まれてきます。泣き声しか持たず、身を守る術もなく、ただそこにあるだけの小さな存在。けれどその私を、誰かが両腕で受けとめ、あやし、眠ることを許してくれました。目には見えずとも、誰かが私を生かそうとしてくれていた。その気配を、私たちは深く覚えています。「世界は、私を生かそうとしていた。私は、この世界にいていいのだ」そんな理由なき安堵が、名もなき記憶として私たちの奥底に降り積もり、やがて「この世界を信じてよい」という静かな確信へと育っていくのです。(p.109)
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矛盾しているままにあること。それは無力さではありません。決めつけず、正そうとせず、それでもその場にとどまり続ける態度。それは、自分に対するもっとも静かで深い敬意なのかもしれません。なぜなら、相反する強い気持ちが心の中で常に同居している矛盾した存在が、人の心の健全な本性そのものだからです。(中略) 私たちが心の揺れを抱きしめることができたとき、そのままの自分で、誰かと「共にある」ことができるようになるのです。自分の未熟さを恥じることなく、他者の矛盾を恐れず、わかりあえなさのままに、同じ場所にとどまることができるのです。葛藤にとどまる勇気、それは、「今ここ」に一緒にいるという選択の美しい証なのです。(p.115)
ㅤ
「受け取る」ということは、自分自身を無防備に開くことを意味します。相手の気持ちや場の空気をそのまま受けとめることは、ときに自分自身が予想しない痛みや揺らぎを伴うことがあります。それでも、私たちがエルダーシップとしてこの態度を大切にするのは、それが場の質感を深く感じ取り、関係性そのものを豊かに耕すからです。誰かが問題を抱えているとき、無理に解消しようとしないこと。むしろ、そこにある問いや困りごと、嘆きをそのまま受け取ります。沈黙を守り、共に迷いながら、場の緊張がゆるやかに溶けていくことを見守ること。そうすることで、場に自然な生命の流れが生まれ、多様な関係性の豊かな調和がもたらされるのです。(p.143)
ㅤ
場をあたかも「いのち」のように扱うとき、場が持つ静かな声が聞こえてきます。場が喜んでいるように感じられたり、場が悲しんでいるように感じられたり。その感覚は、一人ひとり異なりますが、その感覚を読み取って統合していくことは、場がどう在ろうとしているかについての気づきを与えてくれます。それは特定の誰かの言葉ではなく、そこに集う人々の心の奥に流れている微かな願いや、場そのものが長い時間をかけて培ってきた記憶や気配です。(p.156)ㅤ
無償で差し出した贈り物が返ってこなかった痛みも、誰かとの深いつながりが終わる恐れも、ありのままでいることと変化することとの葛藤も、目的やルールを持つことと揺れるプロセスを抱え続けることとの矛盾も、委ねることの怖さも、信じられないことの苦しみもーそのすべての揺れが、私たちが人として成熟するために欠かせないプロセスなのです。そして何より、この揺れや問いを抱え続けること自体にこそ、私たちの希望があります。問いを抱えるということは、私たちがまだ諦めていないということです。まだこの世界や人を愛することを信じているということです。(p.208)

暑い夏の日。 木陰のベンチに座って一息ついたとき、ふと涼しいそよ風にほっとして、もう少しここに座っていたくなる。 戸谷さんの紡ぐ言葉を読みながら、ウェル洋光台にはそんな風がどこからかゆったりと吹いているように感じた。森の中で一人過ごしていた時に吹いてきた風。きっとこの風はすべてがつながっている場所から自ずと吹いてくるものなんだろうな、と思ったことがある。 それは戸谷さんの言ういのちの流れとも重なる質感なのかもしれない。
ー 山田博(武蔵野大学ウェルビーイング学部教授)
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私の中に響いて残り続けた言葉。 「この家という森を、「誰のものでもないいのちの流れ」として扱うということ。 それは「問題を残すこと」ではなく、いのちのざわめきを忘れないことなのです。」 暑い夏の日。 木陰のベンチに座って一息ついたとき、ふと涼しいそよ風にほっとして、もう少しここに座っていたくなる。 戸谷さんの紡ぐ言葉を読みながら、ウェル洋光台にはそんな風がどこからかゆったりと吹いているように感じた。 森の中で一人過ごしていた時に吹いてきた風。きっとこの風はすべてがつながっている場所から自ずと吹いてくるものなんだろうな、と思ったことがある。 それは戸谷さんの言ういのちの流れとも重なる質感なのかもしれない。 日常のさまざまな出来事に心や体が硬くなったとき、そんな流れを思い出せたら。 戸谷さんの言葉には随所にやわらかさが顔を出す。 決めつけのない表現、ふわりと軽やかに宙に浮かんでいるような言葉たち。 それはまるで自由自在に形を変える雲のようだ。 葛藤を抱え続けること。 未解決のまま共にいること。 矛盾しているままにあること。 そのようなあり方の奥には、私たちがみんなが持っている愛と調和の波動が存在しているように感じる。 それはやはりやはりどこからか吹いてきてどこかへと去ってゆく風のそのものであり、森を育む摂理なのだと思う。

私は医療の世界でケアやスピリチュアルケアの実践や教育に関心を持ってきた医師であり、戸谷さんと分野は違っていても、この実践哲学に深く共鳴しています。今、医療やケアの領域において、ネガティブ・ケイパビリティの重要性が注目されています。医療やケアの分野で、よりよき医療の実践を目指す人にも、本書を是非読んでいただきたいと思います。
ー 加藤眞三(慶應義塾大学名誉教授/上智大学グリーフケア研究所客員研究員/エムオーエー高輪クリニック院長)
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本書は、多世代シェアハウス洋光台の大家を長年にわたってつとめてこられた戸谷浩隆さんの「未解決のまま、共にいる」哲学の実践の記録です。わたしは医療の世界でケアやスピリチュアルケアの実践や教育に関心を持ってきた医師であり戸谷さんと分野は違っていても、この実践哲学に深く共鳴しています。
今、医療やケアの領域において、「未解決のまま、共にいる」力、すなわちネガティブ・ケイパビリティの重要性が注目されています。不確実さ・曖昧さ・未解決な状態の中に、性急に答えを求めずに、そこに留まるための力の大切さが認識されてきたのです。
現代社会では、正解を早く出すこと、問題をすぐに解決することが求められがちです。しかし、人間の苦悩や人生の意味は、すぐに答えが出ない、一義的には決められないという性質を持っています。そこにネガティブ・ケイパビリティが必要とされるのです。なぜなら、結論を急がないことによって、より本質的な理解に到ることがあるからです。
医療において、どのようにネガティブ・ケイパビリティは生かされるのでしょうか?
たとえば、診断の不確実性に耐えること。初期には診断が確定しない状態で、経過観察が必要な場合もあります。そこで焦って診断を決めてしまうことが誤診につながります。また、がん患者の余命告知などとよくいわれますが、本当は人の余命など解りようがないのです。ですから、余命告知を求められても解らないといえる勇気が必要とされるのです。
患者さんの語りを傾聴するとき、それは、しばしば矛盾していたり、曖昧であったり、さまざまな感情が入り混じっていることがあります。その時に、それを一刀両断に整理してしまうのではなく、そのままに受けとめて聴く力が求められるのです。実は、そのような傾聴がスピリチュアルケアの核心になるのです。
世界的なベストセラーとして知られる「夜と霧」の著者、ヴィクトール・フランクルは、「人生の意味は問いに対する応答として現れる。すぐに答えが与えられるものではない」と述べています。ネガティブ・ケイパビリティは、意味が現れるまで待つことのできる力とも言うことができます。その実践には、自己の不安に気づく力 沈黙に耐える力、相手にコントロールを及ぼさない態度が必要となります。これは単なる技術ではなく人格的成熟・存在のあり方に関わることです。
このように、医療やケアの分野でネガティブケイパビリティはと大変重要なテーマではあるのですが、実際にそれを伝えること育むことはとても難しいことです。わたしは戸谷さんの活動の中に、ネガティブケイパビリティを育むためのヒントがたくさん詰まっていると信じます。医療やケアの分野で、よりよき医療の実践を目指す人にも、本書を是非読んでいただきたいと思います。

私が長年探求してきた「なぜ硬直化した組織文化は変わらないのか」という問いへの
答えが、この書籍の中に静かに息づいていることに気づかされました。現代の組織変革に携わるすべてのリーダーに、この深い実践知を心から推薦いたします。そして、あなたの日常にも「そっと生まれるもの」への気づきが育まれることを願っています。
ー 鹿嶋康由(トヨタ自動車DXアドバイザー/筑波大学大学院非常勤講師)
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本書『暮らしのなかで、そっと生まれるもの』は、偶然の出会いから必然の学びへと導かれた、深い実践知が詰まった一冊です。
2025年の「コミュニティーを深堀りするフォーラム」で著者の戸谷浩隆氏と出会った瞬間、私たちは互いの話に引き込まれていきました。実家の近くが洋光台という地政学的なご縁、梅農家のむーさんや鎌倉の上岡さんという共通の友人——これらの「そっと生まれるつながり」こそが、まさに本書が描く文化の本質そのものでした。
私自身、トヨタ自動車での1200人規模の「マネジメント3.0」体験導入や、スイス・ジュネーブでの組織変革の挑戦を通じて、制度やルールによる表面的な変革の限界を身をもって体験してきました。しかし、戸谷さんとの対話を重ねるうちに、私が長年探求してきた「なぜ硬直化した組織文化は変わらないのか」という問いへの答えが、この書籍の中に静かに息づいていることに気づかされました。
本書が提唱する「佇まい(たたずまい)」の概念は、私の組織変革への理解を根本から変えました。単なる知識やスキルの習得ではなく、その人の存在感や雰囲気そのものが変わることで、組織の文化が自然に変容していく——この洞察は、私が体験型リーダーシップ開発で重視してきた「手放し」の感覚や、東洋思想の「徳」の概念とも深く共鳴します。
実際に、この書籍の影響を受けて私は「佇まい(たたずまい)」研究家を名乗り始めました。それは、戸谷さんが20年にわたるウェル洋光台での実践を通じて示してくれた、存在そのものが場に与える影響の深さに感銘を受けたからです。
本書が描く「鏡合わせの原理」や「空気感」への注目は、私が提唱する「笑いからの成長人づくり」や「心理的安全性の高い場づくり」の理論的背景を明確にしてくれました。従来の「ビヘイビアチェンジ(行動変容)」を超えた、より深い次元での意識変革——これこそが、VUCA時代に求められる組織の複雑性適応力の核心なのです。
特に印象深いのは、「問いを抱き続ける勇気」や「未熟さを許容する文化」という視点です。私がオランダで学んだ「ゲームで学ぶ」メソッドや、自然体験を通じた体験型学習の本質が、この書籍の実践の中に生きた形で表現されています。
戸谷さんとの出会いは、まさに本書が語る「暮らしのなかで、そっと生まれるもの」の実例でした。計画されたものではなく、自然に育まれたご縁の中から、新しい学びと変容が生まれる——この体験こそが、この書籍の真の価値を物語っています。
現代の組織変革に携わるすべてのリーダーに、この深い実践知を心から推薦いたします。そして、あなたの日常にも「そっと生まれるもの」への気づきが育まれることを願っています。

僕は、この本は現代版の聖書だと思いました。自戒の念、神の愛、将来への希望、そして、色々なことができないダメな自分への「赦し」。深くうなずきながら、涙を流しながら読みました。 ツラかったこと、楽しかったこと、悔しかったこと、感動したことが、ありありとした記憶や感情として湧き起こりました。無数のできごとの中から、戸谷さんのあり方、ふるまい方が伝わってきて、尊敬する気持ちと、こんなもんでいいよねという嬉しい気持ちがこみあげてきました。
ー あらいきよてる(株式会社ここくらす代表/「しぇあひるずヨコハマ」)
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深くうなずきながら、涙を流しながら読みました。
ツラかったこと、楽しかったこと、悔しかったこと、感動したことが、ありありとした記憶や感情として湧き起こりました。
ひるずでの生活だけでなく、大学1年の頃に聴講していた渡辺和子先生のお話のことが懐かしく思い出されます。「愛するということ」「夜と霧」。人間らしく生きることの本質。愛は学ぶことができるというあの時の衝撃。
自分には受け取る能力が弱いのかも、という気づき。読んでいて元気や幸せをもらうことともあれば、できていない自分への反省、自己嫌悪も伴ってくる。
しかし、ダメな自分というのは、こうあるべき理想の自分に照らし合わせての期待値を満たさない自分のことで、そういう自意識が他者に向けられたときに理想から遠のいていくことへの負の感情がおこっていくことを感じました。
ルールを決めても完全に守れない。細かいイレギュラーとの衝突。大きな課題を消すための改善策が、新たな小さな複数の課題を生む。シェアハウスあるある。
「全てのビジネスは課題解決である」という言葉が示すように、不動産賃貸(管理)業は、紛れもないビジネスであり、管理運営上の課題を解決することは、事業者としてやらなくてはいけない重大な責任である、と。
先日、大家の学校のイベントの中で、とある大家仲間から、住民兼運営アドバイザーの人からもっと理想のためにリーダーシップを果たしてほしいと要望され、深く悩んでいたことが頭をよぎりました。
求められていたのはエルダーシップだったなと。そういうアドバイス(解決策提示)をしてしまうのは、余計なお世話なのかという自問自答。
課題は解決しない。悩む。迷う。でもウェル洋光台もそう。
人とのコミュニケーションがうまくとれないのは、相手ではなく自分の中の何かではないか。
対話、観察、静観、受容、感謝は?
それができていない自分を責めていないか?
自分も、発達障害と診断されました。
ペンギンは鳥なのに空を飛べないが、それは障害ではなく特性。
空を飛べないことを責めるのではなく、自由に海を泳がせてあげればいいのだという解放感。
ありのままの他者を受容できることは、ありのままの自分を受容することから始まる。
ビジネスの前に、同じ人間として、ただ生きること。
ウェル洋光台の無数のできごとの中から、戸谷さんのあり方、ふるまい方が伝わってきて
尊敬する気持ちと、こんなもんでいいよねという嬉しい気持ちがこみあげてきました。
不器用で、時に生々しい、愛しき共同生活。
1歳を迎えたはじめての誕生日のお祝いも、結婚式も、お葬式も、ひるずが経験したことは全部が宝物でした。
いろいろ問題を抱えていた住民(叔父)が、実は誰よりもひるずでの暮らしを愛してくれたこと。たくさんのお花と友人の方の楽しい昔話、感謝をこめて歌った讃美歌が包まれた「お別れの会」。
これが、今までひるずを運営してきて一番報われた瞬間だったかもしれません。
2016年、すでに工事見積段階だったシェアハウス構想の相談を、ペアレンティングホーム大家の長嶺さんにしたとき、「多世代型のシェアハウスは無理だと思います。ウェル洋光台?あれは奇跡。」 とキッパリ実現を否定されました。
あれから10年経ちますが、そうした理想のシェアハウスがほとんど増えていないことがその難しさを表していると痛感します。おそらく、うちに相談しにきた「多世代シェアハウスやりたい人」にも、長嶺さんと同じように、ウェル洋光台は奇跡だというと思います。
僕は、この本は現代版の聖書だと思いました。
自戒の念、神の愛、将来への希望、そして、この本から僕が最も受け取ったメッセージ。
それは、色々なことができないダメな自分への「赦し」です。
イエスがおこなった奇跡というのは、おそらく、弱い人と一緒に、ただ「ともにいる」だけだったのだと、最近よく思うようになりました。
伝染病は防げないし、何千年と続くイスラエルの戦争も永遠に終わらない。
そんな未解決だらけの世の中にあって、ともにいることこそ、本質的であまりに尊い。
新約聖書の最後の方に「ウェル洋光台の住民への手紙」として、書いてあっても良さそうです。
僕は戸谷さんのような器の広い人間になれないし、なれないことを残念に思わなくてよいのだと、赦せるようになりました。
神様から与えられたタラントは皆それぞれ。
家族や今のハウスメイトの皆さんに支えられて暮らしている。
それだけで有難いと感じました。
これからも、ここにいさせてください。
ありがとうございました。

非常に詩的な優しい言葉でつづられていて、人の気持ちを動かすとても素敵な本です。多くの人の救いになるのではないでしょうか。
一方、それと同時に、とても興味深い実践の書であり、素敵な話だけでは終わらない骨太の一貫した構造があるなと感じました。
ー 野々垣直浩(日系企業のAI研究開発部長/のの式 本のあいだラボ)
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非常に詩的な優しい言葉でつづられていて、人の気持ちを動かすとても素敵な本です。多くの人の救いになるのではないでしょうか。 一方、それと同時に、とても興味深い実践の書であり、素敵な話だけでは終わらない骨太の一貫した構造があるなと感じました。 自分自身、職場でマネジメントを預かる中で、人が同じものを見ても同じように感じているわけではないという、言葉にすると当たり前のことに何度も直面してきました。 人というのは似ているようでいて実はとても違う。そんな「人」が一緒に暮らす場所で、「サービスなし、役割なし」の共同体であるウェル洋光台が20年ものあいだ維持されてきたこと。それは単に心温まるエピソードの集積ではなく、揺らぎながらも豊かに存続してきた一つの"システム"の記録として、とても興味深く読みました。 2020年代、企業社会では「目的」「目標」や論理思考が信奉され、私生活にもコスパやタイパが浸透しています。一方でメディアには「なりたい自分」「理想の自分」といった分かりやすい物語が空気のように満ちています。そうした中で、この本の主題——「未解決のまま共にいる」は、そのどちらとも異なる知恵が、ウェル洋光台という実践の中で言葉として結晶化したものだと感じました。 互いに分からないことを前提に、理解をすることを諦めないが、相手のことを分かったと思わない。そういう誠実さは、「共感」や「配慮」、「普通」や「正しさ」が蔓延する社会で生きる時の一つの免疫であり、防壁でもあり、大切な人達と一緒にいるための手がかりとなりうると思いました。 未解決は欠如を表し、人がそれらを回復することに執着するのが典型的な物語のプロットです。ここで、あえて未解決のまま共にいるということは、今の充足を感じ、未解決であることを「余白」として捉え、他者との境界を柔らかくたもつことが鍵だろうと思うとともに、それもまた未解決だなと思います。 著者の戸谷さんが書こうとしたことと、私が感想として受け取ったこともちがうかもしれません。そして、おそらくこの本を読んだ方の多くは私とちがう読み方をしているでしょう。ぜひみなさんもお手に取ってどう感じるか、どう考えるか考え始めるきっかけになればと思います。

もしも、私がこの本を誰に手渡したいかと問われれば、私はこのように答えるでしょう。誰かと共に歩むということは、簡単なことではありません。生きていればきっと多くの人が、頭を悩ませることなのではないのでしょうか。かくいう私も、例に漏れずその1人です。親、恋人、職場の同僚、友達、たくさんの人との関係で頭を抱えてきました。この本は、そんな悩める私たちを、そっと抱きしめ、そしてそのままでいいと背中に手をおいてくれる。私にとってそんな本でした。ー 玉澤佑季(施術家)
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『人生に、悩み葛藤する、全ての美しき同胞たちへ』
もしも、私がこの本を誰に手渡したいかと問われれば、私はこのように答えるでしょう。誰かと共に歩むということは、簡単なことではありません。生きていればきっと多くの人が、一度か(いやおそらく幾度となく)頭を悩ませることなのではないのでしょうか。かくいう私も、例に漏れずその1人です。親、パートナー、職場の同僚、友達、たくさんの人との関係で頭を抱えてきました。この本は、そんな悩める私たちを、そっと抱きしめ、そしてそのままでいいと背中に手をおいてくれる。私にとってそんな本でした。
昨今、一度SNSを開けば、煌びやかな世界が広がっています。まるでこの世界には楽しいことしかないかのように、何の悩みもないかのような世界です。そんな世界にいるうちに、いつしか、悩みや葛藤というものは、ネガティブで、汚くて、人見せてはいけなくて、抱えていること自体、許されていないようなそんな気にさえなってきます。この本は、私たちが生きていく上で、当たり前のように感じる苦悩や葛藤を、ちゃんと『当たり前』のように受け入れては、そこに向き合う勇気にちゃんと目を当ててくれている、そのように感じさせてくれる本でした。
正直に告白すれば、私はこの本を読むのに、実に6ヶ月もの時間を有してしまいました。振り返れば、理由は2つありました。一つは、この本をとても真面目に、その言葉一つ一つを丁寧に味わいたいと思ってしまったからです。私にとって、ここに書かれている言葉一つ一つは、著者の戸谷浩隆さんの祈りそのものを読んでいるようでした。言葉には意味以上の何かが宿っているように感じました。私は、流し読みのような、軽い気持ちで、この本を読むことを許すことができずに、その言葉、一つ一つと、ちゃんと向き合いながら読んでいました。一言一句を取りこぼしたくないというそんな願いもあったかもしれません。(ちなみに私は自分に響く文章はメモをするのですが、この本に関してはなかなか読み進められないくらいメモが止まらない一冊でした。書かれている内容はもちろん、言葉一つに一つに心にこだまする何かがあったからです。)
二つ目は、この本は『読もう』と意図して読むというよりは、私にとって『読む感じがする』時に少しずつ読むような本でした。もちろん、愛について、わかりやすく体系的に書かれているものなのですが、私にとってこれは、知識を得るためでも、知的好奇心を満たすために読むような本ではなく、読んでいるうちに、どこか心と身体の緊張が抜けていくような、心で読む、神聖な読み物でした。一気に読み進めるには心がいっぱいになってしまい、結果的に、少しずつ読み進めるような本になりました。
前述したことと重複してしまうのですが、私がこの本から頂いたいちばんのメッセージは『悩んでもいい。葛藤してもいい。それが成熟に繋がる』というものでした。それは私自身が、悩んではいけない、苦しんではいけないと、きっとどこかで、暗くネガティブな、人間であれば当たり前に持つ感情を否定しては抑圧して生きてきた人生だったからかもしれません。幸せとは悩みや葛藤のない人生ではないとこの本は伝えてくれました。むしろ悩みや葛藤の中にこそ、幸せは宿っているのだと、この本はそう教えてくれているようでした。
この本は私にとって、いつでも、枕元に置いておき、この本に呼ばれたら、あるいは何か大切なことを置き去りにしてしまっていると感じた時に開きたい、そんな一冊でした。
まだまだ書きたいことは
山ほどあるのですが、感想文はこの辺にしたいと思います。この本が、読む全ての人の幸せに繋がりますように。全ての人が共に生きることに向き合う勇気を讃えあう世界でありますように。
参考:本で印象に残った文章
どうにも割り切れない未解決の現実を抱えたまま、なお「共にいる」ことを選び続ける力
「共にいる」こと。それは、うまく言葉にできなくても、そばにいようとする態度のこと。逃げずに、捌かずに、ただ隣にいること
答えが出ない苦悩や困り事を抱えたままで、それでも隣にいようとすること。その姿勢の中に、愛の本質が静かに宿っているのではないでしょうか。
誰もがすべての面でやさしくあれるわけではない。けれど、それぞれが心を込めて接することのできる場所が違うからこそ、ある部分は誰かが支え、別の部分は誰かが担う。そんな風に場が育って行く
整った食事や瞑想を通じて、身体と心を整えること。それは本来、もっと人と繋がって生きて行くために始めたはずの取り組みです。
しかし、その平穏は誰とも交わらないという「あきらめ」の上に築かれているのかもしれません。
「安心であること」と「関わらずに済ませること」は本当に同じなのでしょうか?
面倒を共にする関係の中で、小さな愛や豊かさが息づく瞬間があります
「なぜ、すれ違っても挨拶をしないんだろう?」始まりは、ほんの些細な投げかけでした。けれど、それが人と人との間に風を通し、関係という土壌を耕し始めたのです。p20
「権利」と「義務」ではなく、「愛」と「親切」で編まれる関係の器。
P21
人と人の違いがぶつかった時、話し合いではなく、まなざしと配慮と余白のある対応でほどいていく
P21
仲の良い家族ほど、問題がよく見える。問題が見えない関係こそ、どこかで誰かが感じることを諦めているのかもしれません。
P24
ずっと変わらないでほしかった場面は、気付かぬうちに通り過ぎます。でも、だからこそ、かけがえのない瞬間が息づいていました。
P27
「もっと気持ちよく過ごすには、どうすればいいのだろう?」
そんな素朴な呟きが、誰かの声として場に差し出されるとき
その困り事は不満や批判を超えて、文化の種になるのです。p28
私たちはお互いに妥協して、形だけの解決にしてしまいがちです。けれども、それを誰かのせいにせず、少し時間をかけて味わうことができたなら。問いを口にし、苦労を共に抱えるという営みそのものが、「ここにいてもいい」と感じられる土壌を育んでいくのです。
P28
だれもが心から納得する理念を掲げることができなかったからこそ、「わからなさ」や「困惑」から始まる営みを、大切にできました。
P29
ここで言う「愛とは」、人間を超えた秩序、いのちの流れ、宇宙の呼吸のようなもの。確かに感じられる何かへの信頼。人間の力で押し通すのではなく、場の気配に耳を澄まし、いのちの声に応答するような暮らし方。
「私はいのちのままに生きているだけ」
「分析的な」知恵とは対象から一歩離れ、外部の観察者として客観的に物事を記述し、理解しようとする知の在り方です。それに対して、「生きられた知恵」とは、自分自身がすでにその関係性や場の一部であることを前提として、そこに起こる感覚や響きを直接感じ取り、深く受け止めながら生まれる知の在り方です。
マザーテレサ
「神の手の中の小さな鉛筆」
愛を受け取る器であり、その愛が流れる管であると表現した
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。愛の本質は、なにかのために働くこと、何かを育てることにある。
愛は、与えられるもの。けれどそれを受け取り、誰かに手渡して行くには、「私」という「器」が必要です。
愛とは、自分のなかに「ある」のではなく、ともいる営みのなかで、「立ち上がってくる」ものなのかもしれません
「人は与えたい存在だ」と静かに信じられている場では、行為の大小にかかわらず、そこに育つ温かさが、暮らし全体へと自然に染み込んでいきます。
本当に人を育て、支えるのは、「大切にされている」と自然に感じられるような空気感なのかもしれません。
たとえば、自分が「与えられている」と感じているとき、相手もまた、「与えられているのはこちらの方だ」と感じがちです。
分かり合えないという現実を静かに受け入れつつも、その根底でお互いが確かに響き合っていることを感じ取る姿勢そのもの
与える力が強まる時、場にはもう一つの緊張が生まれます
主体的に「与えよう」と意識すればするほど、相手もまた「与えよう」と感じてしまい、緊張が生まれます。
これは、私たちが「与える」という主体性にとらわれ、「受け取ること」を忘れてしまった結果なのです。
この罠を越えるために必要なのは、受容性、「受け取る勇気」
「この場に支えられている自分でいてもいい」へと視点を反転させるような感覚
受け取る勇気とは自分が与える前に、まず自分が「与えられている」ことをそっと許すことです。相手が差し出してくれるものを素直に受け取る態度を意味します。
愛は『与えること』と『受け取ること』のあいだに立ち上がる営み
信頼 世界や他者、そして自分自身が、すでに存在そのとのとして受け入れられていると言う感覚に根ざすこと
闇は、光なくして存在することはできない。
闇とは、ときにそれが人を恐れさせるものではあっても、光と拮抗する力ではなく、光の赦しの中で存在しているものであり、光があらわれることで消え去るようなものにすぎない
私たちが関係の中で抱く恐れや未熟さを、そっと打ち明けること
それは、扉を開く小さな一歩となるのです。
配慮とは、相手のいのちの健やかな発達を「そっと祈る」ように願い、ペースを尊重しながら支えること。変えようとも導こうともせず、ただ静かに寄り添い、必要な時だけ手を差し出す
手仕事そのものが祈りになるような「在り方としての配慮」です
「まずは、何もしなくても大切にされることを受け止めることから、始めて欲しい」
「本当に心から喜んでやりたいと思うことをその気持ちが続く範囲内でやってほしい」
太陽が照って、木に果樹が実る自然の恵みののうな、この世界の本来の豊かさを共に感じることができます。
共同体において本当に大切なものは、誰にも評価されない、目に見えない営みによって支えられていることが多いのです。
『贈与論的な公平』とは、全員が同じだけやるのとではなく、『その人が喜んでできること』かその人の持ち分として尊重される状態のことです。
配慮は、「誰かに必要とされたいから」生まれるものではなく、ただ、共に暮らしていてくれることそのものが、すでに贈り物なのだという感覚から、自然と立ち上がってくるものへと変わります
差し出した配慮もまた、名付けられなくても、相手の中にそっと残り、静かにこの世界を育てて行く。そんな流れの中に、私たちはすでに身を置いているのです。
「つながる」ことを選ぶ責任とは、相手の「あらわれ」に惑わされず、その人の「そのもの」に触れようとする行為です
伝え方の工夫は、相手と共にいるための小さな橋になります。
制度や仕組みを整えること以上に、自分自身の在り方が少しずつ変わって行くことこそが、まわりに静かな影響を与えて行くのだと、繰り返し気付かされてきたからです。
まだ勇気を出せずに揺れている人に対して、「あなたは勇気がなくてもここにいていい」と伝え続けることです
相手の「ありのままでいようとする勇気」を1番の贈り物おして互いに喜び見守って、応援し合うこと
ありのままを活かし合うとは、お互いの不完全さを、重荷ではなく贈り物とひて差し出し合うこと。
そして、未熟なまま、迷惑をかけあいながらも、なお共に生きていこうとする勇気を持ち続けることです。
未熟さを許しあい、迷惑をかけ合いながら、それでも「一緒にいていい」と思える関係。それが尊重という愛の形
意見が同じ人同士で嘆き合うのは簡単だけど、意見の遠い人たちで対話し合えるようになってほしい。
「違和感を覚えそうな人はいるかな」と、もし顔が浮かぶなら、事前にその人と語り合いの時間を持ってから、他の人たちに共有していく。全員に発信する前にら当事者間の「語らい」を経ること。p85
本当に必要なのは、「何をしたか」よりも、「なぜそうなったのか」の背景に目を向けることなのでしょう。背景に目を向けてくれるような空気感がなければ、素直に指摘を受けとる態度も、指摘に対してその背景を誠実に説明しようとする態度も、どちらもうまく機能しなくなります
相手の声が、理解できなくてもいい。ただ、その声がここに「ある」ことを、いっしょに感じていたい。その想いを共有するなかに、知という愛のかたちがあるのです。
当面の決まり事もまた尊重し、日々問い直され、編み直される関係性の中でこそ活きるものです。p89
信頼とは、何かを「する/される」ことではなく、「ある」ことそのものを受けとる感性です。自らの意思によって他者を信じるというやりも、もっと深く静かに「すでに私たちは世界に信じられている」という気づきに触れること。
それは今まで触れた、四つの愛の形が湧き上がる背景としての「源流」でありながら、同時に四つの愛の形を通じて育まれる「到達点」であるもの。そして、恩寵に立ち戻り、愛とは何かを問い直し、ふたたび旅を始めるための深い「余白」でもあります。
信じたいと願いたいかどうかに関わらず、「この場にいるあなたを、私の知らない理由ごと信じていること」が何よりも深く場の空気を変えていくのです
木々が根を張るように、私たちの身体も、この世界と呼吸を交わしています。それは連帯ではなく共鳴、協力ではなく波動の重なり。
私という存在は、私が思い通り管理する存在ではなく、私が大いなるものから、そのごく一部の制御を委ねられているに過ぎない。
祈りこそは自分自身のいとちの声と深く繋がる偉大な手段であることは間違いない
その体験は一人一人の思い出となるだけでなく、その土地にも「空間の記憶」として刻まれています。単に人が過ごした時間の積み重ねだけではなく、そこで交わされた小さな祈りや、やさしい沈黙、贈り物として差し出された言葉の気配といった、目に見えない繊細な層が積み重なっていくのです。
人は自分で判断して行くことで一人一人の直感を磨いていきます。占いや霊の声、周囲の声に惑わされず、自分のうちなる感性への信頼を培いあっていくことが、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることにほかなりません。
愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。愛の本質は、なにかのために働くこと、何かを育てることにある。
愛を受け取る器であり、その愛が流れる管であると表現した
愛は、与えられるもの。けれどそれを受け取り、誰かに手渡して行くには、「私」という「器」が必要です。
その体験は一人一人の思い出となるだけでなく、その土地にも「空間の記憶」として刻まれています。単に人が過ごした時間の積み重ねだけではなく、そこで交わされた小さな祈りや、やさしい沈黙、贈り物として差し出された言葉の気配といった、目に見えない繊細な層が積み重なっていくのです。
このように、愛するとは、自分を超えた大いなる存在に、そっと信じて身を委ねることでもあります。
愛は忍耐強い。
愛は情け深い。
妬まない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪を企まない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。全てを忍び、全てを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛からの直感とは、思考を否定するものではありません。むしろ、合理的な思考や感情の働きを包み込みながら、それを超えていく、統合的な力です。
どれだけの問題を場で受け止められているのか、共に困ることができているか
支配されながら支配するような鏡合わせの関係性。信頼という愛の形を育む道には、常に恐れと迷いが伴います。
疑いながらも信じたいと願う。だからこそ、私たちは、分析し洞察を深めたいと願います。
けれど、別の時には、問題の奥に流れるもの、言葉にならない痛みや願い、ふと感じる違和感や祈りに静かに静かに耳を澄ますこともあります。
そこでは、心の深いところにある気づきや直感が導きとなり、世界や他者とのつながりを思い出させてくれます。
分析的な洞察は現実や現状を把握して、根源的な洞察は理想や本来の姿に対する洞察と言えます。
理想だけを見て希望を語ることはたやすく、現実だけを見て諦めることもまたたやすい。
理想と現実の両方を勇気を持って、見つめる時、そこに新しい道が開け、なにかが進んでいくことがあります。
「配慮」「責任」「尊重」「知」それらの営みが重なってら世界の善意を信じて、いのちの声に身を委ねてみたいという願いや勇気が立ち現れるのです。
信頼しようとする在り方こそが恐れを超えて、愛を育むさまざまな勇気のかたちを生み出すからです。
そんな信頼が折り重なっていくと、信頼は「場」そのものの空気感へと変わっていきます。言葉が届かなくても、ただ誰かがそばに「いてくれる」ことで、空気がふっとやわらぎ、息遣いが自然に戻っていく
「この世界は信じるに、愛するに値する場だ」という感覚にどうすれば育みあうことができるのでしょうか
私たちが本当に健やかであるためには、自分1人で完結することはできません。健康な身体が空気や栄養を必要とするように、人間という存在もまた、誰かと共にいるという関係性や営みを通じて、はじめて健康を回復し、維持できるのです。
フランクルを絶望の底から救ったのは、収容所の囚人たちがわずかなパンを分け合い、言葉を交わし、共に歌い、夕陽の美しさに感動し、苦しみを背負いあった「人と共にいる」というありふれた営みでした。
私たちは誰もが未熟なままにこの世界へ生まれてきます。泣き声しか持たず、身を守る術もなく、ただそこにあるだけの小さな存在。けれど私を、誰かが両腕で受け止め、あやし、眠ることを許してくれました。目には見えずとも、誰かが私を生かそうとしてくれていた。その気配を私たちは深く覚えています。
世界は、私を生かそうとしていた。私は、この世界にいていいのだ。
そんな理由もなき安堵が、やがて「この世界を信じて良い」という静かな確信へと育っていくのです。
「私が私である」ことよりも、「私がこの世界の一部である」ことが静かに感じられます。
「世界の方が私を迎え入れようとしている」ことへの、静かな応答なのです。
今でも、愛と平和の世界を作りたい、という思いは変わりません。
そのためには一人ひとりの意識が愛と平和になることしか道はない、ということもわかっています。
そして、人は自分の意識しから変えられないということもわかっています。
でも、1人の意識が変わった時、人類全体の意識、つまり集合意識はほんの少しだけ、変わるのです。だから、一人ひとりの目覚めが本当に大切なのです。、
少しだけ、それぞれにエゴが落ちてきて、神様にすべてをゆだねる気持ちが強くなっているのはありがたいことだと思っています。
信頼とは「信じようとする力」ではなく、私たちが何もできなかったときから、すでに「信じられていた」ことを思い出す感覚。それは、自力で築く砦ではなく、静かに灯された「最初の火」なのかもしれません。
私たちの身体も、本当はこの森のようなものです。けれど私たちは、自分の身体を、まるで所有物のように扱おうとしてはいないでしょうか。
私がこの世界を信じる以前に世界の方が私を信じている
呼吸のように、しずくのように、場へと染み出し、空気を少しずつ変えていきます。そのようにして、文化の空気感が静かに整えられる時、共に暮らす人々もまた根源的信頼を思い出し取り戻していく
私たち一人ひとりの内面には、自分の力を超えた何か大きなものに静かに守られ、支えられているという不思議な感覚があるように感じます。未熟なままで生まれてきた私たちを無条件で見守ってくれていた母親は赤ちゃんにとってこの世界そのものであったはずです。
私の命は私の所有物だという感覚が薄れていきます。霊性とは、まさにこのよぬな私たちの根底にある「普遍的なつながり」への感覚です。
本当にその場を支え、人と人を結びつけているものは、眼に見える言葉ではなく、言葉を超えたところにあるものではないでしょうか。
場の意味や声に耳を澄まそうとする「余白」。この余白を持つことが、文化の生命力を生み出します。
個人の中で静かに霊性が育まれるとき、その霊性はながて場の空気となり、共同体の空性に響いていきます。
私たちの1番大切にしたいことを私たちはほとんど知らない。そんな私たちが、このいのちや社会を任されているという感覚からうまれる静かな謙虚さ。
その余白が保たれることにより、文化は生命力を取り戻し、人々は深い安心感と共に生きることができるのです。
場が丁寧に整えられ、美しさが自然と漂うとき、そこに集う私たちの魂もまた、自然に整い、穏やかに安らぐのです。
根源的信頼は、論証で獲得する結論というより、空気を吸うように身に纏う感受性です。
勇気の一歩を踏み出すのか、痛みから自分を守るのか
その微かな判断に、場に漂う空気感が影響を与えます。
安心が先にある場では、わずかな兆しにも身を固くしがちな私たちのからだに、世界に身を委ねる仕方を思い出させます。
手仕事に込められた祈りや暮らしのリズムに美しさを見出す「詩性」は、この世界にある恩寵を受け取り、賛美する喜びを私たちに教えてくれます。「美しい」という理屈を超えた感性は、言葉より早く世界の善意を信じる癖へと変わります。文化その文化固有の美しさの感性を大切にし続けるとき、私たちも自然に、理屈を超えて、自分の魂のもつ固有の感性を大切にしていく勇気をもらうことができるのです。
言えない想いや揺れが「声」として抱き止められているとき、「矛盾したままでも居られる」「問題だらけでも豊かだ」という体験を人にもたらします。ありのままをそのまま見つめて、じっくり味わおうとするあり方が、一人ひとりの中に矛盾した心の声をそのまま受け止めていこうとする包容力を育みます。
人が自分の内面を信じられるようになっていくとき、人の内面のもう一つの投影であるこの世界のこともより信じられるようになっていくのです。
「何もなくても、すでに繋がっている」その静かな確信が場に生命力をもたらしていくのです。
文化とは、どんな理念を掲げてどう運営するかではなく、「信頼を育む人の静かなあり方」が折り重なって生まれるものなのだと、あらためて気付かされます。
しっかり地に足をつけながらも、その感性を見ないふりをして封じずに持ち続けること。
エルダーシップの理解は、私たち一人ひとりが、誰かの支えになれる世界という理想を実現しよつとすることではなく、むしろ、私たちがいつも誰かや何かに支えられている
そのことを静かに認めることから始まります。
エルダーシップは、何かをするというよりも、何かをさせてもらっている感覚に近いもので、自分自身を開いて、誰かの営みや場の微かな声を丁寧に受け取る営みなのです。
本当の成熟は、自己完成よりも、自分自身が置かれた場との応答性のなかに、あるように思うのです。私たちは、怒っても悲しんでもそこに愛が漂うような漂うような佇まいになぜか惹かれます。
全体像だけを見渡せる抽象的な高みにとどまる時、私たちはしばしば誰かの痛みに触れずに済んでしまいます。
私たちは自分の成熟を「自己完成」という直線的な道のりで捉えがちです。
ときにティール段階や実在的変容とも呼ばれる発達とは、ある地点を目指す直線的な道ではありません。下降であり、上昇であり、ときには縦横無尽に、無邪気に命そのままにあるということです。
自分が好きなすでに知っている意味だけで相手の存在を閉じてしまわずに、相手の中で新たに立ち現れる意味を丁寧に受け取る姿勢です。
自分が主体となって何かを「与える」あるいは「理解しよう」と主体的に動く時、かえって場には緊張が生じることがあります。
主体性が強すぎることで、場の自然な流れが阻害されることもあるのです。
マザーテレサが、決して自分のことを「私こそが、皆が見習うべき愛の人である」とは捉えていなかったように、愛や配慮は、それを自覚し、役割として引き受けた瞬間に、その質を変えてしまいます。
「与える勇気が大切で、私は重要な役割を果たしている」そのような信念を自分自身が持った瞬間、それまで共同体のなかで自然に育まれていた佇まいは、役割意識や期待に縛られ、微細なゆがみを帯び始めるのです。
この受け取る態度は必然的に「感謝」を伴います。自分が共同体に存在し、この営みに関わることを許されていることへの深い感謝です。自分が何かを「させてもらってる」ことを静かに感じ取り、その感謝の眼差しが自然と場に広がり、文化の空気をやさしく整えていきます。
「在り方」とは何でしょうか。私たちはよく、自分自身の「存在」や「成熟」を、どこか孤立した個人の完成や安定として捉えがちです。「自己変容」「悟り」「ありのままの自分」という言葉も、個人が一人で達成する状態のように感じられることがあります。
実際には、「在り方」の実在は、個人の中だけに完結するものではありません。それは、常に周囲の関係性の中で表現され、形作られています。
私たちは長らく、「存在とは、個人が自律的に成立していること」だと捉えてきました。
「存在とは、あらかじめ完結した個が孤立して『ある』のではなく、むしろ他者や世界との関係性のなかで初めて姿を現すものではないか」と。
エルダーシップとは、一般には、年長者などの経験豊かな人が、権力ではなく信頼・知恵・存在感によって集団の方向性や関係性を支える在り方のことです。
エルダーシップとは、その場に居合わせた誰もが、その瞬間の場の呼びかけに静かに応じることにのって自然と表れてくる、小さな営みの積み重なりなのです。
わからないことをそのまま大切に抱えること。
場がどう在ろうとしているのかに静かに耳を澄ませること。
言葉にならない感覚や沈黙を丁寧に守り続けること。
季節の花をそっと飾ったり、椅子を静かに並べ直したりといった小さな配慮で、場の雰囲気を穏やかに整えること。
場の輪郭を静かに調整し、内側の柔らかな空気を守ること
日々のささやかな手仕事を祈りのように繰り返し、言葉にならない美しさを場に保つこと。
「今このチームが抱えている問題は、もしかしたら私がその人を支援する量が足りてなかったから起きてしまったのかもしれない」と考えることが、はじまったということなのです。
狩猟採集民が森に向き合うように、この家を扱いたい
根源的な問いに対して、私たちはしばしば焦りを感じ、すぐに答えや定義を求めます。
「わからない」ことを決めつけずに受け取り続ける態度
それが、私たちのいのちの微かな声に耳を澄ませることを可能にしてくれるのです。
たとえば、狩猟採集民は森の微かな気配や動きを丁寧に感じ取り、森が何を願っているのか、どのようにあろうとしているのかに静かに耳を澄ませます。
祈りとは、自分を超えた大きな存在との静かなつながりそのものです。
だからこそ、「話す」よりも「聴く」ことのほうが、ずっと大切になるのです。
母なる大地は、私自身よりも、私が本当に願うべきことをよく知っています。その深い信頼があるからこそ、私はこの大地の声に耳を澄ませます。父なる天は、いつでもこの大地に惜しみなく恵みを注いでくれています。その恵みへの感謝から、私は天を静かに賛美するのです。
みんなが場の繊細な気配や雰囲気に丁寧に耳を澄まし、それをそのままそっと受け取りながら寄り添っていくような態度で手入れがなされていきます
それはまるで詩人が、言葉が自然に流れてくるのを静かに待つような、繊細な感受性にも似ています。
輪郭を整えるというのは、強い言葉や明確なルールを示して、外側から来るものを強く拒絶することではありません。むしろそれは、静かな所作や丁寧な姿勢を通じて、「この場には、ここまでなら受け入れられるが、これ以上はそっと控えたい」という微妙な感覚を、静かに示すような営みです。
たとえば、誰かが自分自身でも気づかないうちに抱えている微妙な違和感や迷いを、その人自身が安心して見つめられるよう、そっと配慮のある問いを差し出すことがあります。
何か言葉にしづらいことを感じているのではないでしょうか?
こうした静かな促しがあるとき、人は自分のなかにあある繊細な感覚や願いをゆっくり見つめることができるようになります。
「気ままにやさしく、意味なく美しく生きる」
人が愛し合うために生まれてきたのだとしたら、その愛とはなんだろうか。
理想を掲げると、私たちの心には理想的な人間像への投影が始まります。この投影は、自分の中の受け入れ難いシャドーを「自分ではないもの」として外に追いやり、安心感を得ようとする心理的なメカニズムです。
理想像が強くなるほど、その裏側にある「本当はこうしたかった」という気持ちは見えにくくなります。見えなくなったものほど、他者の姿を借りて現れ、私たちに強い違和感や怒りとして迫ってくるのです。
理想を追求し、自己の中にある影や矛盾を排除することで安定や安心を得ようとする物語は、それゆえに、必ず影が生じ、その影が表面化した瞬間に物語そのものが破綻します。
客観的に分析した豊かな組織に存在している役割の論述と、その役割を生きている人が持っている「生きられた知恵」 は異なるからです。
誰かとのつながりは、安心や喜びをもたらす一方で、深い痛みや恐れも生み出します。だから私たちは、「つながることの痛み」から自分を守るために、自立や自由を求めるようになります。傷つく可能性を避けようとして関係を断ち、自分の殻に篭ってしまうことがあるのです。誰かを必要とすることを弱さと感じ、孤独を選ぶことでしか自分を守れない。そう思い込んだまま、被害者のように生きてしまう人も少なくありません。
けれど、そこには深い矛盾があります。私たちが本当に望んでいるのは、孤独なまま生きることではありめせん。むしろ誰かと深くつながりあうからこそ、より自由に自分自身であり続けること
自分に与えられた生命力をら生き生きと表現できること、それこそが私たちが本当に願う愛のかたちなのではないでしょうか。
どんな関係もいのちも、やがて終わりを迎えるという苦しい事実を受け入れるとき、私たちは初めて、自分が自分であることを守りながらつながりの中で自由になれるのです。
「どうしても変われない」と苦しんでいるときには、「いまのままのあなたで十分価値がある」と伝えつつ、「でもあなたには変わる力もある」と伝えたい。逆に「変わらなければ価値がない」と思い詰めているときには、「変わらなくてもらあなたはすでに大切な存在だよ」と肯定し、余白を与えたい。
誰かを深く愛するとは、その人がどんな人であっても、ありのままの姿を受け入れることから始まると私は信じます。その人がいま置かれている状況や未熟さ、葛藤、あるいは弱さをそのまま認め、その人がそのままで大丈夫なんだと感じられるよう、まず自分自身が相手の大丈夫さを噛み締めていたい。
自分自身を否定せずにいられるような安心できる場をつくること これが受容することの喜びであり、豊かさです。
しかし、私は同時に、誰かを愛するが故に、相手が苦しんでいるとき、あるいは明らかに自分自身を傷つけてしまっているとき、その人が変わっていくことを願わずにはいられません。その願いは、相手を否定するためではなく、むしろ相手がより自由で幸せに生きられるようにという深い願いから生まれますりそれもまた私の一部なのです。
同じように、自分自身を見つめるときも、私たちはこの二つの願いの狭間に立たされます。いまの自分をただそのまま受け入れたい。同時にら自分自身が抱えている苦しみや欠点、未熟さから自由になりたい。その葛藤が深ければ深いほど、私たちは苦悩を抱えざるを得ません。
この苦悩こそが、私たちが成熟していくためにどうしても避けられないら本質的な余白なのです。
本来私たちの存在は、この世界の善意に守られているのだとい感覚を求めています。なぜなら、それが未熟な状態で生まれてくる私たち人類の心の原風景だからです。
豊かさはいつも面倒くささとせっとなのです。子育てのように。
「共に困る」ということは、目に見えない贈り物です。すぐに答えが出なくても、何も解決しなくても、矛盾を抱えたまま隣にいて、「また話そうか」と繰り返す。その営みのなかにしか育まれない、確かな明るさがあるのだと、私は感じています。
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電車の中で読んでて泣きました。ここまでの葛藤やあがき、未熟な不安を抱えながら取り組んできたことが、救われるような感覚でした。コミュニティにおける未熟な自分の不器用なあがき、そして失敗しながら、時に傷つき、また人を不本意にも傷つけてしまう中で、それでもコミュニティを信じて諦めず歩んで来たことが、やさしく受け止められたような感覚になりました。それぞれの在り方に1つの光を灯してくれる、愛と祈りの本。
ー 石井光(ちっちゃい辻堂 大家)
戸谷さんの静かな優しさ、信頼、喜びがやさしく美しく繊細で知的な言葉から繰り返し、繰り返し伝わって来ました。この静かで深いメッセージが大勢の必要としている人の元に届くことを願っています。
ー 三木卓(元講談社編集者/Oshoの弟子/ACIM学習者)
問題を性急に解決せずに、「困ったね」「話そうか」と言える関係を私たちはどれだけ作れているだろう。この本を読みながら、私は友人たちとの間で起きたあるトラブルを思い出していた。場で自分を開け渡すことは難しい。だけどお互い様の気持ちで、自分の思いを差し出すことができる場は、それだけで慰めになるはずだ。家族関係、友達関係、会社のチームなど、近いからこそ悩ましい人間関係をどう抱えていけばいいかで苦しんでいる人におすすめの1冊です。
ー 滝和子(あまやどり出版主催/編集者/ライター)
私がウェル洋光台に住んでいたとある日、とても悲しいことがありました。抜け殻のような体でふらふらとたどり着いた部屋の扉。目線を落とすと、そっと置いてある住人からのお手紙とおにぎり。状況は何一つ変わってはいないけれど、今はこのあたたかさがあればもう大丈夫だ、もっとみんなと共に生きたい、そう思いました。読めば読むほど、あの優しくて苦しくて愛おしい日々のことが私の元に帰ってきたような感覚になりました。またウェルに帰るね、いつも見守ってくれてありがとう。さみしくて悲しい夜を過ごしているあなたへ。みんなから日々受け取っていた愛を思い出して、もっと生きたいと思わせてくれる、そんなギフトになるはずです。
ー 石川峻(コアキナイゼミ代表/森みたいな株式会社/ウェル洋光台元住人)
『未解決のまま、共にいる』を読んで、戸谷さんは旅人だと感じました。これは物理的な移動の問題ではありません。「愛とは?」「共にいるとは?」と言った問いを問いとして未解決のまま抱え、目の前の事象から試作を深めていく。その姿勢は旅人そのものです。テーマも決まっていないまま、旅に放り出された私にとって、その深さを持った旅の先達に会えたことが最大の収穫でした。他者の深い言葉が養生になるタイプの人にプレゼントしたいです。
ー 匿名(国際基督教大学卒業生/20代女性)
高校生の息子が、問題行動を起こして、生活が荒れていました。そうした時にこの本を開いてみると、「その時息子とどのように向き合ったら良いか」必要と思うことが書いてありました。戸谷さん自身がウェルでずっと人に向き合い、自分に向き合ってきたその歩みであり、本気で人を見てきたからこそのものだなと感じました。ありがとうございます。
ー 匿名(学校法人職員/40代)
愛を「する」と決め、暮らしを「共に」生きる、生きている、生きたその歩みを惜しみなく、その体験から生まれたあらゆる感覚と声が一粒一粒で丁寧に紡がれ、おおらかな暖かさの空気の中置かれていた。共に暮らせた時間は、とても暖かかった。戸谷家との時間を振り返ると、暖かな涙が出てくることがよくあった。
紡がれた言葉は、こんな暖か眼差しを...私の知らない背景や体験、歴史と共に向けてもらっていたのかと、言葉が出なくなるほど胸いっぱいになる。そこで、ことばを、わたしわたしもなにかまた、”ここ”にあるあたたかさを差し出してみたくなった。ありがとう。 ー 匿名(セラピスト/ウェル洋光台元住人)
出版に向けたご支援ありがとうございました!

春に配布させていただいた初期限定版も1年をかけて慎重に校正を重ねて準備したつもりでしたが、その後も550箇所以上の修正を重ねました。出版は思ったよりずっと手間のかかる作業でしたが、皆様からいただいたお気持ちと応援の言葉に支えられて、出版まで漕ぎ着けることができました。感謝します。
いただいた応援メッセージの一部を以下に紹介させていただきます。
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入居25年なのに隣のダンナさんの顔がわからない。知り合いは子ども関係のママだけ。そんな大規模マンション住みの私が知らない「つながりの実践」。読みたいです。追体験してみたい。
広い世界の多様性といったものが身近になった高揚感と、身近になったが故に湧き上がる不安感の渦の中で生きる日々を感じています。このご本は、そんな渦を観察しながら楽しむ術をやさしく知らせてくれるのではないかしらと思っています。
本のタイトルが今の私に必要な感じがして注文させていただきました。横浜在住ですが初めて知ったウェル洋光台についても内容を楽しみにしています。
ギフトエコノミーという言葉を最近知ってこの場所も知りました。横浜にこんな素敵な場所があるなんて…本を楽しみにしています。
初めましてなのですが、とっても惹かれて早く読んでみたく申し込みをさせていただきます。
知り合いがシェアしていて興味のあるテーマだったので購入させていただきます!いつか訪れてみたいです。頑張ってください。応援しています!
吉武大輔からの紹介で知りました。興味深い内容なので注文と共に、ささやかながら応援させていただきます!
天外さんのコミュニティを深掘りするフォーラムにオンライン参加していました。出版おめでとうございます!
新しい時代の新しい風を感じよう
戸谷さんのなさっていることに非常に興味を持っております。本のご出版、ありがとうございます。
たくさんの産みの苦しみがあったかと思いますが、戸谷さんが培われてきた叡智を読めるということはものすごいこと、有難いことだと思っています。多くの方に届きますように。
20年の実践を言葉にするのは、暮らしの中で積み上げてきたものとはまた違う大変さがあったと思います。出版おめでとうございます。楽しみにしています。
戸谷さんとウェルの実践からの愛のメッセージ、色んな方に届きますよう!
ひろちゃん、出版おめでとうございます。ひろちゃんのウェル洋光台やそのほかの探究を通じた経験が共有知になっていくことに嬉しさを感じています。広がっていくことを心より応援しています。
「恐れからではなく、愛から」という在り方へのチャレンジが、いつもそこに在りました。そんなウェルのエッセンスがたくさん詰まったこの本が世に出るということが希望です。たくさんの人の心に届きますように。
いただいたやさしさや視野の拡がりは、自分の中で今も生きています。また今度遊びに行きますね!
戸谷さんが育てたこの場が戸谷さんにどんな世界を見せたのか、楽しみにしています!
ウェルの空気感、大好きです! 出逢いに感謝です! また遊びに行かせてください。
いつでも帰れるウェル洋光台!本楽しみにしています!
戸谷さんの柔らかな雰囲気が場を作る素敵な要素になっていると思います。これからもゆるりと楽しんでください。
今までの道のりが本になっているんですね!勉強の参考にさせていただきます。
戸谷さん、書籍出版おめでとうございます!ウェル洋光台での軌跡に触れられるのを、楽しみにしております。
出版おめでとうございます!ウェル洋光台の軌跡に触れられるのが楽しみです。
ウェル洋光台二十周年、そして出版おめでとうございます!
20周年&ご出版、おめでとうございますー!
ご出版おめでとうございます。表紙からすでに温かくて、手に取るのを楽しみにしています。
ご出版おめでとうございます!本が届くのを心待ちにしております!
この度はご出版おめでとうございます!よ~く味わいながら読ませていただきます。
この度はおめでとうございます♪ 読むのが楽しみです!
出版おめでとうございます。たくさんの方に届きますように。
出版、おめでとうございます。届くのを楽しみに待っています。
著者プロフィール

戸谷浩隆(とや・ひろたか)
1977年横浜生まれ。神奈川県横浜市在住。
多世代シェアハウス「ウェル洋光台」の大家で、二人の娘の父。妻を含めた家族四人で、ウェル洋光台で暮らす。父方の祖父母と妹を含めた六人家族で育つ。多くのコミュニティ運営者と同様、発達障害的傾向に苦労した腕白な子ども時代を過ごした。国際基督教大学教養学部を卒業後、東京工業大学理工学研究科修士課程に進学し、数学(幾何学)を専攻。大学院修了後、大手電機メーカーに入社し、翌年研究部門に配属。以来一貫してソフトウェア工学関連の研究開発業務に携わっている。2006年11月に開業したウェル洋光台に、翌年3月に住人として入居し、ウェル洋光台で出会った妻と結婚。2009年に一度卒業するが、2013年に運営難を機に家族と共に再入居し、再生を手がける。パーマカルチャーやティール組織の思想を取り入れた、「ギフト」で成り立つ暮らしの実践は、NHKドキュメンタリーや全国誌などでも紹介されている。日々の暮らしの中にある祈りと、「共に生きること」の豊かさ、矛盾を抱えた人間同士が抱える面倒さの中にふと訪れる恵みへの驚きは今も尽きることがない。
※本の感想や応援メッセージは著者のFacebook(hirotaka.toya.jpn)まで気軽に寄せてもらえたら嬉しいです。
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